B03902 尾崎咢堂(行雄) 卸売 五言句二行書 憲政の神様:真作

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B03902 尾崎咢堂(行雄) 五言句二行書 憲政の神様:真作

B3902 高さ:200.0cm 横径(軸先含む):53.0cm

状態:シミ・折れ少々あり。洸本・肉筆。合箱。

本紙サイズ 縦径:125.5cm 横径:34.7cm

尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年[1]11月20日(1858年12月24日) - 昭和29年(1954年)10月6日)は、 日本の政治家。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、 当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」 「議会政治の父」と呼ばれる。正三位勲一等(1946年(昭和21年)5月4日付返上) 号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。 生い立ち・青年時代 相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ。幼名は彦太郎。尾崎家は天正18年後北条氏が滅びてから又野に移り、累世相続いて里長となる。掃部頭行永以前の尾崎家先祖が住んでいたといわれる伏馬田城というのは牧野にあったが、その城跡一帯は現在尾崎ヶ原といわれている。尾崎の先祖は今川義元の家来で、武田信玄に攻め立てられて没落した。尾崎の父・行正の生家は漢方医を業とし、漢学者・藤森弘庵の私塾に桂小五郎(木戸孝允)の先輩として学んだ。11歳まで又野村で過ごした後、会津戦争に赴き、のちに弾正台の役人となった父・行正に従い、明治元年(1868年)に番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学び、一家も明治4年(1871年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。その後、明治5年(1872年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。父は熊本転任が予定されていたため、東京遊学を許し行雄に弟を同行させて慶應義塾へ向かわせた。 明治7年(1874年)に弟と共に上京し、当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾童児局に入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となるが、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して退学し、福沢の友人で工学寮の校長・ダイヤーと大鳥圭介に紹介文を書いてもらい、染物屋になるため明治9年(1876年)に工学寮(のちの工部大学校。現・東京大学工学部)に再入学するも学風の違いや理化学へのいやけから『曙新聞』などに薩摩藩の横暴を批判する投書を始め、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶應義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三田演説館で演壇に立つなどした。1879年には福沢諭吉の推薦で新潟新聞の主筆となる。 官吏・新聞記者・政界へ [編集] 当時海軍将校だった長谷川貞雄相手に講演した強兵論『尚歩論』が機縁となり矢野文雄に誘われ明治14年(1881年)に統計院権少書記官という官職に就任する。しかし明治14年の政変でわずか2ヶ月あまりで下野し、明治15年(1882年)報知新聞の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加するが、大隈重信の奇妙な脱党に不信感を覚えた。翌年東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出される。政府の条約改正案に対して強い反対運動が起こると、尾崎は反欧化主義の急先鋒となり、後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めた。相談した結果、後藤を正装させて、宮内省にむかわせたが天皇と合うことは許されず、クーデターを計画し始めた尾崎は、明治20年(1887年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた。尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)星亨や林有造らの土佐派と友好を結び、知己の間を廻った。 父が神風連の乱で九死に一生を得て伊勢で余生を楽しんでいた縁故をたどり、明治23年(1890年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。伊勢では投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことのない選挙人が二代・三代に渡って少なくない。この時代の選挙はまさに戦争同然であり、尾崎も何度も刺客に襲われそうになっているが、地元の猪狩の鉄砲隊を組織してこれを追い返したりしている。 政界の麒麟児 [編集] 松方内閣の第三会議における軍艦製造費削除問題などで活躍し、朝野新聞などから絶賛される。伊藤元勲内閣では第六会議で、民党六派は内閣弾劾上奏文を提出し尾崎がその説明に当たった。第一に政府の不当解散、第二に政府の軟弱外交、第三に政府の議会軽視、第四に伊藤の事ごとに袞竜の袖に隠れる行為を批判し、伊藤博文は顔色を変えたといわれる。この採決は149対144というわずか5票の差で否決されたのである。日清戦争後の第四回総選挙後は各派とも従来の恩怨を忘れ、挙国一致して外敵に抗する議決を広島の大本営で可決した。伊藤が後に幾多の障害を排して自ら政党の組織に乗り出し、立憲政友会を創ったのは日清戦争における各派の協力ぶりを見て政党敵視の観念を放棄したからだといわれている。日清戦争が始まると東亜の大計を立てるべきとの論文を次々に執筆し世論の指導に務めた。三国干渉に伊藤が屈すると対外強硬派の先頭に立って「政友有志会」を組織して演説した。 この間、進歩党・憲政党に属した。時局便乗派の徳富蘇峰の国民新聞などが松方正義と大隈の近接が最上の時局救治策であるとの主張を盛んに唱導したこともあってか、第2次松方内閣が成立すると、その外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、「二十六世紀事件」や樺山資紀の食言などで、現職の尾崎自身も倒閣に動いたので、大隈と首相の松方正義が対立し辞任した。自由党・進歩党両党合同による憲政党を結成し、初の政党内閣である明治31年(1898年)、隈板内閣において40歳の若さで文部大臣として入閣した。この頃には「政界の麒麟児」といわれ、のちに最も首相となるに近い人物として世間から注目の的であった。そのうちに第六回総選挙は明治31年8月14日に行われ、憲政党は圧倒的に勝利したが内部抗争や猟官運動が露骨となり、星亨が大隈を攻撃するなど内閣は大揺れに揺れた。明治31年8月22日、尾崎は帝国教育会からの依頼により神田一ツ橋の同会で演説したが、当時藩閥の御用新聞だった東京日日新聞に言葉尻をとらえられて、伊藤巳代治らに旧自由党の人間も加わって攻撃され(共和演説事件)、文相を辞任し、尾崎は後任に星亨と江原素六を挙げていたが、その後任を巡って憲政党は分裂、隈板内閣も総辞職した。山県内閣が発足すると、憲政本党の最高幹部に属していたが、伊藤博文を訪問して義和団の乱以来の日露関係を話し合い意気投合し、立憲政友会の創立に参加して憲政本党を離脱、政友会の総務委員の一人となり、尾崎は星亨と共に院内総務を任じられた。桂内閣が発足すると、党務執行の常務委員の5人に選ばれた(尾崎、原敬、星亨、片岡健吉、大岡育造)が、まもなく星が暗殺され、党務の中心は尾崎と松田正久の2名に命じられた。しかし、その後伊藤とも対立して離党、片岡健吉や加藤高明もこれに倣い、同志研究会を組織し、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。 東京市長・憲政擁護運動 明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長に就任。夫人の逝去を受けて尾崎三良の娘・テオドラと再婚したが、混血児との結婚は尾崎に対する種々の誤解を生じさせたようである。結婚後は軽井沢に別邸を設け、莫哀山荘は軽井沢の名所とさえなった。明治37年2月、日露戦争の開戦後に西園寺内閣が発足、西園寺が桂の反撃を受けて総辞職し、第二次桂内閣が発足すると、明治41年12月21日、尾崎は猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させるが、尾崎は西園寺総裁の下で再び政友会に復帰する。他方、犬養や大石らは立憲国民党を結成した。この時、幸徳秋水らの大逆事件と南北正閏問題が起こり、桂内閣は西園寺を推薦して総辞職した。 陸軍大臣上原勇作の声明で、西園寺公望が二個師団増設案で退陣に追い込まれ、長州軍閥による毒殺で桂園時代が終わると、桂が宮中・府中の別をみだるものと難じ全国的な国民運動が巻き起こった。大正元年(1912年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。これらの集会は全国で行われ、各地に咢堂会が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかった。桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後政友倶楽部・亦楽会・中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。山本内閣がシーメンス事件で総辞職し、清浦奎吾が首相就任を拒絶すると、大隈にお鉢がまわり、中正会を代表して法相として入閣した。 第一次世界大戦後 第2次大隈内閣では司法大臣となる。部下には平沼騏一郎や鈴木喜三郎を置き、若槻蔵相・加藤外相・八代海相の3閣僚辞職後の内閣改造で活躍する。加藤高明を党首に担ぎ出し、憲政会を結成、最高幹部に就任する。大隈が疲労などから辞職し、寺内正毅内閣が発足後シベリア出兵問題で早々に終焉するとついに原敬内閣が誕生した。尾崎はこれを好意に思い、第一次世界大戦後の欧州諸国の現状を見るために欧州視察の外遊に出る。当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第一次世界大戦後のヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、態度を変化させ一貫した軍縮論者となった。既に欧州の主流は反軍国主義であり、日本はこれに逆行しようとしていたからである。 また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢や、西尾末広と反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に反対の意思を示す(棄権など)など議会制民主主義を擁護する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった[6]。憲政会を離党すると、ついに無所属議員となりのち30年あまりを無所属で通した。無所属になったことは政界での尾崎の出世の妨げとなり、ついに二度平大臣となっただけで、総理大臣になることはできなかった。 政党政治から翼賛政治へ 国家主義・国民主義的な観点から軍縮論者となっていた尾崎は、全国遊説の旅に出る。1924年超然内閣であるの清浦奎吾内閣が成立すると、これに反対する第二次護憲運動が始まる。護憲三派が成立し衆議院総選挙の結果、護憲三派が勝利し、加藤高明内閣が成立する。その後は政党内閣が続き、1929年には「政党内閣の頂点」と言われる立憲民政党の浜口雄幸内閣が成立する。しかし1930年に満州事変の勃発後、軍部の政治介入が相次ぎ、政党政治は危機に陥った。1932年に犬養毅首相が暗殺されると政党内閣は終焉した。尾崎はこの現状を憂慮して「墓標に代えて」と題して遺言を執筆し、雑誌「改造」に掲載された。 二・二六事件ののちの広田弘毅内閣が一年足らずで潰れ、林銑十郎が組閣すると昭和12年2月17日、尾崎は議会で登壇し『正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上』なる2時間におよぶ辞世を詠み、新聞は全面を埋めて尾崎の演説を掲げた。近衛文麿内閣が誕生し日本が泥沼化へ入ると、西尾末広の演説に連座した事件で、議院の構内に尾崎の銅像を建設する計画も中止された。大政翼賛会や三国同盟を経て東条英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなかった。昭和17年(1942年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。昭和18年(1943年)、前年の総選挙の際に田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙批判を行った中に引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(尾崎不敬事件。一審で懲役8か月執行猶予2年の判決、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。 戦後 敗戦後、逗子市の風雲閣では訪問客に溢れ、宮中にも招かれた。尾崎は引退を決意していたが三重県民は引かず、無断で推薦し当選させ続けた。戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。95歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である(アメリカではストロム・サーモンドが連邦上院議員を100歳まで務めている)。1950年には英語国語化論を提唱したこともある。世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)初代会長。 昭和29年(1954年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため慶應病院で95歳にて死去。墓所は鎌倉の円覚寺。 人物 永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。 相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものであり、銅像も建立されている。 東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。その返礼としてアメリカよりハナミズキを戴き、日本に初めてハナミズキをもたらした人物としても知られている。 9年にわたる東京市長在任は、政争が激しく短期の在任での交代が多かった東京市長の中で最も長いものである。金銭的にも清廉潔白で有名であった。もっとも戸川猪佐武によると、犬養毅に「そりゃ確かに君は清廉潔白で献金をもらわんかもしらんが、その代わり、我々に借金をするじゃないか。そしてその金を返さないじゃないか。借りた金を返さんのも清廉潔白のうちか。」とやりこめられて、さすがにグーの音も出なかったという。戸川によると、尾崎は「原敬は金が欲しい議員には金をやって、ポストが欲しい議員にはポストをまわして、それで子分を増やしたのだ。」と言っていたということで、田中角栄シンパとして有名だった戸川は「そんなことを言っているから尾崎は政界で孤立したのだ。」と書いている。のちに内閣総理大臣となる三木武夫は政界入りした当初は尾崎を政治上の恩師と仰いだ。


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